脳梗塞は突然に 【闘病記その1】
こんにちは、このかです。しばらくは、脳梗塞になってから入院中の事を書いて行きたいと思います。闘病記その1です。
忘れもしない、私が脳梗塞になった日、2019年6月19日。
いま思えば、前兆のようなものはあったのかもしれません。
6月に入ったころから、頭痛を感じる事が増えていたのですが、子供の頃から片頭痛持ちだった事と、住んでる地方が梅雨入りしたこたもあり、偏頭痛だろううとロキソニンを飲んで誤魔化していました。
脳梗塞になる前日の、6日月18日も頭痛を感じつつ、仕事終りに、両親と、母の友人と私の4人で外食に行く予定をたてていたので、19時から焼き肉に行って居ました。この時はまだ、数時後に脳梗塞になるなんて思いもせずに。
外食から帰って直ぐに母親にやっぱり頭痛が治らないこと、頭が痛いので、薬を飲んで早く寝たいと伝え、シャワー浴びて布団に入ったのが23時頃
このとき母には、薬を飲んでも直らないのはおかしいから、何かあったら夜でもいいから起こしてといわれ、私は一階の自室で、母は二階にある、当時私の部屋兼、猫部屋だった二階の部屋でそれぞれ眠りにつきました。
布団に入って暫くは頭痛もあったのです、が小1時間ほどで薬
が効いたのが眠れない程の痛みは無くなり、うとうとうととお夢の中へ。
そして次に目が覚めたのが、日付けが変わり、19日になった、深夜2時。トイレ行き、用をたし、布団へ戻ったりときに、ものすごい頭痛。今までに経験した事がない痛みに、何かおかしいとと思い
、2階の母を電話で起こし、地元の医療センターに電話すると、来ていいと言われたので母運転で病院行に向かうことに。
この時の事は自分ではあまり覚えてないですのですが、閉めたままドアにぶつかりそのまま出ようとしたりとおかしな行動はあったようです。
とにかく早く病院へと母が運転する車に乗り込みをいざ病院へ。
地元の医療センターへは車で25分くらいなのですが、この途中に車の中で2回嘔吐。
母が飲んいた、LAWSONの町カフェの空きカップがあってほんとうにのかよかった。ありがとう。ローソン。
これがなければ洋服も、嘔吐物まみれのまま病院に行くはめになってました。
その後病院に着き、そのまま、CT検査をするも、異常無し。
取り敢えず、痛み止めを飲み、病院のロビー横の待合室で待機することに。
1時間ほどすると、看護師さんが様子を見に来て、痛みが取れたか聞くので、取れてないと答えると、今度は座薬を投入。
その後、4時頃に再度母が看護士さんに言われた事が、CTで異常は無かったので、帰ってどうぞと。
母がこんなに痛がってるのに帰れない。と、訴えると、看護師さんに痛かったら、寝れませんよね?と言われたそうです。
私は頭が痛過ぎて目を瞑って痛みに耐えていたのですが、看護士さんは、それを寝ていると思ったようです。
母が寝てないです。
すこし、目を瞑ってうとうとうとするだけで、すぐ、頭が痛いと目をあげるんですと言っても、変わらず、病院側はいつでもかえってどうぞ。というスタンスだった模様。
何度何度も看護師が様子を見に来て帰宅を促す中、母がその度に帰宅を拒否して気付けは夜が開けました。
そして、脳外科の先生が出勤したのが朝の9時で、それから、やはりCTでは問題ないですけど、念のためにどこから頭痛が来ているのか調べる為にちょっと時間はかかりますがMR Iを撮ってみましょうか?という話になり、慌てて家を出た出た母は携帯も持たずに出て来てしまっていたので、母は荷物を取りに一旦自宅に、荷物をとりに行き、病院にかえって来た母がちょっと良いですか、と先生に呼び出され、そこで告られた事は、
もうすでにかなりの広範囲で脳梗塞になっています。
でした。
それで、うちの病院でも治療は出来るけど、まだ若いのでリハビリや、今後の事を考えると、大きな病院に行った方がいいいと言われ、11時頃から、県内にある救急病院、熊本済生会病院に緊急搬送される事に。
この時に最初はドクターヘリで緊急搬送しようという話が出たそうですが、もしかしたら、生まれつき、脳の血管が細い可能性があるため気圧の変化があるドクターヘリより時間はかかっても陸路で行った方がいいかもしれない、との事で、陸路で向かう事に。そして陸路で2時間かかる熊本市内の済生会病院へに救急搬送される途中の救急車中で、救急隊員が持ち上げた左手を離すとてを上げた状態で保持する事ができず、左手がぶらんとなり搬送中の救急車の中で、麻痺症状が現れ始めたそうです。
後から、熊本の病院で言われた事が、お母さんがしっかりしててよかったですね。
もし、看護士さんに言われるまま帰ってたら、確実に死んでましたね!!!でした…
お母さんありがとう!
あとからわかった話では、普通脳梗塞だと、呂律が回らなくなったり、手足の痺れや麻痺などが出て脳梗塞かも?と気付くそうなのですが、私が、頭痛で病院に行ったときは、喋れる歩ける、ただ頭が痛いという状態で。
私の年齢が31歳だった事と、最初に行ったのが、小さな町(私が住んでいる所は熊本県天草という陸の孤島のど田舎)の医療センターだった事もあり、おそらくスタッフの圧倒的な経験不足に、脳梗塞の症状が全く出ていなかった事もあり、病院側がMRIを撮るまで脳梗塞と気付けなかったんだろう…という事でした。
正直、ここの病院が直ぐに脳梗塞と気付いてくれていれば。
CTではなく、直ぐにMRIを撮ってくれていれば。
という気持ちが無かったかと言えば嘘になりますが、
でも最初はうちで手術も出来ますが
お若いから県のの大きな病院はの搬送を進めて下さった事にいまはとても感謝しています。
最初は私も、
ここの病院が早くから脳梗塞たら気付いてきれていたら、車椅子にならずに済んだのではないか?と思ったこともあるのですが、私が脳梗塞で障害者になるのはきっとこの世に生まれ落ちた瞬間から決まっていた事だと思うのです。
なので、私はその運命を受け入れて、誰かを恨む事なく、前向きいきていきたいと思っています。
もやもや病発覚【闘病記その2
こんには、このかです。
今回は前回の続きです。
2019年6月18日、いや、日付けが変わり6月19日の深夜2時、
あまりの頭痛に近くの地域ー医療センターを受診。
CTでは異常がないので、薬を飲んで帰っていいですよ言われたのを母が断固拒否して、ようやくMRIを撮影。撮影すると、広範囲で脳梗塞ですと言われ、県内の大きな病院に救急搬送されることとに。
この時に、ドクターヘリで行くという話が出たのですが、MR Iの画像を見るかぎり、もしかしたら、生まれつき、脳の血管が細いかもしれない。
それなら気圧の変化があるドクターヘリより、陸路での搬送がいいかもしれない。といわれ、11時からら、車で2時間ほどかかる、熊本市内の済生会に緊急搬送されました。
搬送中は、はとにかく頭痛とサイレンの音がうるさくて辛かった記憶しかありません。
私は憶えていないのですが、この時、救急隊員の方が私の左手を持ち上げて離した所、どらんと下に落ちたため、痲痺の症状がでてます。と病院側と電話で話していたそうです。
病院について、私は、HCUという、ハイケアユニットに運ばれ様子を見ることに。この時に親は、もしこのまま脳が腫れるようなら、頭蓋骨を外しますという説明を受けたそうです。
病院についてからの私の記憶は、
浪漫飛行うるさい!。
なんと、ここのハイケアユニットのナースコールの音が浪漫飛行で、誰かがコールを押すたびにあちこちから聞こえてくる浪漫飛行。
まぁ、このときはまだ頭が痛すぎて、自分が脳梗塞だと分かってませんでしたが、先生からは、こんなに若くて脳梗塞なら、もしかしたらもやもや病かもしれないね、脳が腫れて頭蓋骨で圧迫されると、脳ヘルニアになって危ないないからその時は頭がい骨を外すねって言われたのはなんとなく憶えてます。
頭蓋骨外しますって言われても、頭が痛すぎまて、この痛みから解放されるなら、何だって良いわ!って感じでした。
そして、その後、順調?に脳も腫れ、翌日20日16時から頭蓋骨を外す手術をする事に。この時は、記憶もあり、様子を見に来た母に、16時から手術だって!と言ったみたいです。覚えてないけど笑
そして、その時に母に言ったのが、私のことはいいから、猫をよろしく
だったそうです。
実は、猫好きがこうじて、個人的に猫の保護、里親捜しをしてて、実は脳梗塞になる数日まえにとも黒い仔猫を保護していたので、その子の事も心配で。
でも、私のその一言のおかげで、私が入院する6ヶ月の間。母は、飼猫と保護猫6匹のお世話をしてくれてました。
片道3時間近くかかる私の病院に通いながら。
本当に感謝しかありません。
お母さんありがとう!
そして、手術の時間になり手術。全身麻酔なので、私は全く記憶にないです。
手術は16時から、22時まで6時間の手術だったようで。その間は母は待ち合い室で待機していたのですが21時には消灯で真っ暗になるし、かなり不安だった様子。
私は手術が終わってからの記憶は、とにかく頭が痛い。
頭開いて頭蓋骨外してるのであたりまえですが。傷口が痛いとかでは無く脳が痛いってかんじでした。そして定期的に聴こえてくる浪漫飛行。
うるさい。痛い、うるさい。ただそれだけ。
次に覚えてる記憶は、あつい。
かんかあついすごくあつい。
ナースコール押す、聞こえてくる浪漫飛行、すくぐに車看護師さん。暑いと伝えたいが、喋れない。のどなにか入っている様子。
声が出せないので、布敷き布団になんども、
あつい
と書く。
看護師さんにあついの?と聞かれる
伝わった!
何度もうなずくわたし。
看護士さんがふとんをはぐ。
涼しい!!!!!
頭は変わらず痛けど、暑さからは開放された!
この時、喉には呼吸用のチューブが入り、鼻には栄栄養を流すチューブが。
太腿の付け根には点滴で全身管だらけ。
しかも、麻痺が出ておらず、唯一動く右手は、鼻から流しているチューブを抜かないようにと、拘束されていて、全く、動かせない、動くのに動かせない、これはかなり辛かったです…。
私はとにかく頭がいたくて、この頃の記憶は、あまりないです。
最初の頃は、頭が痛い、うとうとする、頭が痛くて目がさめるを繰り返していたのですが、頭の頭蓋骨を外す手術して2日ほど経つと、1日の流れがなんとなくわかって来るようになりました。
この頃になって、喉に入ってる酸素の管を抜こうって話になり、先生らしき人にあーって声をだしてと言われる。
でも、これが難しい。だって、喉にチューブが入ってるのに声出せないもん。
先生から声が出せないとくだ抜けないよ。と言われ頑張って出そうとするが、全く出ない。そしたら先生が急がなくていいから、また週明けに試そうねっと言われ。この日は結局管は抜けず。
ですが、週明けのテストで無事に声が出せて、喉から酸素の管が抜けたのが、手術から4日後の6月24日月曜日。
この時に実感した事がしゃべれるって素晴らしい!
私は脳梗塞の後遺症に失語症は出てなかったので、管を外したてしばらくは咽が痛かったですが、直ぐに話しが出来る様に鳴りました。ナール押して看護師さんにどうして欲しいかも言えるし、本当に良かった。
でも術後落ちつき、1日の流れが分かるようになって困ったことが事が、夜寝れない。
一日中、、寝ては頭痛で起きてを繰り返していたので、21時の消灯の時間になって、ハイケアユニットが暗くなっても全然ねれない。
ある日看護師さんさんに、寝れないというと、睡眠薬をくれて。それを飲んで、やっと夜、寝れました。
でも、次の日は寝れないって言っても睡眠薬が貰えなくてまったく寝れず、一晩中、あちこちから流れてくる、浪漫飛行を聞いて過ごしました。
次の日はもまっまく寝れず、ナース押して、看護士さんを呼び、眠れる薬下さいとたのむが、だめ!!といわれる。
悲しい。
そらに対して言ったことが、
別にくれないならそれでもいいけど、その変わり、朝まで騒ぎますよ!!です。
この時に言われた事が千と千尋みたいなこといわないの!でした。
千と千尋?
坊の遊んでくれないとと泣いちゃうぞ。の事か?
それから、この病院を退院するまで定期的にいわれ続けた事が、自分は、看護士になって8年たつけど、患者に脅されたのは、貴方が初めてです。でした。
脅したつもりはないんだけどなー。
ごめんね看護士さん!
とりあえず今日はこの辺で。
尿意との戦い【闘病記その3】
このかです。
今回も前回のつづきです。
もやもや病から2019年の6月19日の深夜2時、あまりの頭痛の、地域の医療センターを受診し、脳梗塞と判明、11時から県内の大きな救急病院に搬送され、脳が腫れて命に危険があるからと、翌日20日の16時より、脳が腫れた脳が頭蓋骨で圧迫されている右側の頭蓋骨を外す手術を行ない、なんとか一命を取り留めた私。
無事に呼吸器も外れ、話ができるようになって、まず、困ったことが、尿意はあるのにおしっこが出ない。出ないと言っても、この時は術後で、尿道カテーテルが入ってる状態だったのですが。
看護師さんにトイレに行きたいたいと訴えても、カテーテルが入ってて、おしっこはちゃんと出てるから大丈夫!と言われる。
でも、わたしはおしっこがしたい、トイレに行きたい、
いまになって冷静に考えれば脳梗塞で左半身は動かないし、右側の頭蓋骨外してるから、もし、転倒でもしたら脳を直接強打するのと同じなので、トイレに行かせてもらえるわけも無く。
看護士さんは管で出てるから大丈夫っていうけど、ちがうの!出したい時に自分の意志でだしたいの!
看護師さんにはワガママ言ってしまいました、申し訳ない。
ですがある日突然看護士さんがきて、尿道の管を抜くと言いだしまして。
どうやら、術後、ずっとカテーテルを入れていたせいで、尿路感染を起こしたようで、 発熱し、40度を超えていると言われる。
そして、抜かれるカテーテル。
抜くときはとても痛かった。
でも、これてやっと自分の意思でおしっこできる!トイレじゃなくてオムツだけど!
オムツに出すと気持ち悪いけど、ナースコール押すと看護師さんが変えてくれる!
おしっこしてオムツが気持ち悪くて泣く赤ちゃんの気持ちを31歳で理解することになるとは。人生ほんとなにが起こるかわからない。
この時私は思いました。
31歳までは健常者として生きてきたけど、これからは障害者として生きていくんだ、私は今、生まれ変わったと思おう!これから第二の人性のスタートだ!!!!!
脳梗塞で麻痺が出ると、すごく落ち込んで、鬱病みたいになる人も多いみたいで、私は若く意識もはっきりしていただけに、かなり心配されてたんですが、倒て目が覚めても、何でこんな事になったんだろう?とか、病んだりする事もなく、むしろ、人生リスタート!なんて思える位だっったので、我ながらポジティブで良かったです!
保護カフェを作りたい理由
今回は闘病記ではなく、ブログの題名にある保護猫カフェをつくるまでというなにより先に説明すべきだったことについて。
実は私、脳梗塞なる前に、個人的に猫の保護活動をしておりまして。
2015年に産まれたての子猫を保護した事をきっかけに個人的に保護活動を開始、今までにつないだ命、子猫38匹、成猫3匹。 うちの子になった猫5匹。
こちらが過去に保護し。里親さんに命を繋いだ子たち。
こんなにかわいいのに、みんな無責任な人間に捨てられた子達です。
私は熊熊本県民なのですすが、里親詐欺防止のために、絶対に、里親様の自宅での引渡しをしていたので、熊本県内から、鹿児島、福岡、山口と九州内外で里親さんを探し、ご自宅までお届けするという事を続けていました。
実は脳梗塞になる3日前にも、職場で黒い仔猫を保護していました。
この子です。
そして、脳梗塞になり、先生からも死んでもおかしくなかったと言われた中、私が死なずに生き残ったのには、私にはなにかすべき事があるのではないか?と思った時に、
私にはまだ救わないといけない猫が沢山いる。いままで里親を探してしてきた猫達のおかげまでl私は死なずにすんだのではないかと思ったのです。
なので、一番の理想はリハビリで、脱車椅子して、普通に保護猫カフェをつくる事なのですが、もし、脱車椅子出来ても、出来なくても、保護猫カフェをつくり、その時は、車イスでも来店可能な保護猫カフェを作りたいと思ったのです。
保護猫カフェはいつか絶対に作りたいので、その希望も込めて、このような題名にのブログになりました。
便秘ってつらい【闘病記その4】
こんにちはこのかです。
前回は尿意との闘いで、今回は便秘の話。汚ない話ばかりですみません。
脳梗塞で入院し、右脳の広範囲が脳梗塞で壊死してしまい、脳が腫れ、このままでは、腫れた脳を頭蓋骨で圧迫され、脳梗塞になっていない左脳まで障害が出る可能性位が高いとう事で、腫れている右の頭蓋骨の一部を外す手術を行ない、なんとか一命をとりとめた私。
術後一週間ほどは、ずっと、鼻の管からどろどろの栄栄養を流していたんですが、固形物を食べて、ないせいか、お通じが出ない。
お腹が常に張って苦しい。
だって、6月18日の夜に家族で外食して焼き肉食べて、日付が変わった19日の深夜に近くの病院にいき19日の昼前に県内の大きな病院に搬送されて、そのままバタバタと頭蓋骨を外すまでに至ったので、焼肉もお腹に貯まったままだ!出さねば!でもでない!
いいつもは、朝の7時から仕事開始で、8時頃にはスッキリ出ていたので、便秘になったことなんてなかったので、便秘がこんなに辛いなんて知らなかった!
看護師さんに苦しいと訴えると、
今は栄養流してるだけだから便秘になってもしかたないよねーって言われる。
そうかーしかたないのかー
でも苦しいんだよー。
地獄かと思った。
ついには気持ち悪過ぎて嘔吐してしまう。
そうしたら、看護士さんが、坐薬を入れると言い出して座薬をいれられる。
そし薬がきくまで30分は絶えて。といわれ、これがまた苦しい!
でも、結局40分耐えた。
30分すぎたあたりで便意はあったが、体が此処はトイレじゃない!と、だす事を拒否しているのか、出ない。
苦しい。
30分すぎたあたりからはずっと自分に、ここはトイレ、オムツしてるから大丈夫!と自分にいいきかせてた!
そして自己暗示のせいかなのか、ただ、我慢が出来なくなっただけかはわかりませんが、何とかオムツに用を足せて、やっとスッキリ。
でもやっぱりトイレで出したいな!
はやくトイレに行けるようになりますように!!!と神に願いました。
今日はこの辺で。
汚い話なのに最後まで読んで下さってありがとうございます(*´◒`*)
天使との出会い 【闘病記その5】
こんにちわ。このかです。
入院して1週間ほどたち、私は1人の天使に出逢った。
きっかけは看護師Kさん。
この人は、私がいくら睡眠薬をくれっていってもくれなくて、私がお薬くれないと朝まで騒ぐよ!っていったら、千と千尋みたいな事言わないの!と言われ、この病院を退院するまで、看護師8年してるけど、患者に脅されたのはあなたが初めてだっていい続けた人。
ある夜、いつもの、睡眠薬くれ、
いや、まだだめ。9時半過ぎてもねれなかったらあげるから待って、
いやだ!寝れない早く飲ませてよ!!ってやり取りをしていた時のこと。
この日はどうやら、看護師Kさんが、私の担当ナースだったみたいで、何度ナースコール押しても来るのはこのKさんばかり。
そして、睡眠薬をくれ、駄目だ。のやりとりをしていて、私はついに我慢出来なくなってKさんに向かって、ある発言をする。それが、
私は、あなたみたいな男じゃなくて、かわいい看護師さんに優しくされたい!!!!!!!!
これは、嘘偽りのない、私の心からの叫びだ。
だってそうでしょ。誰だって、30過ぎた男より可愛いい看護師さんにお世話してもらいたいでしょ!
で、この発言をしたら、Kさんはこう言った。
わかった、わかった、朝なったら、Aちゃんって可愛い看護師さんが出勤するから紹介してあげるから頑張って寝て!と言われ。
何時に来るのか聞いたら、日勤だから8時に来ると言われ、私はどんな子なんだろうと期待に胸を膨らませつつ、眠りについた。
翌朝、おはよーと声をかけられ、目をあけると、そこには小動物系の可愛い女の子が。これがAりんとの出会い。めっさ、かわいい連呼した。
本当に可愛かった。しかも良い匂いがする!!!
神様ありがとう!!!!
Aりんありがとう!!!!!
そして、ハイケアユニット内で、私は可愛い女のが好きだとい広まっていき、かわいい子の名前はすぐ覚えるぞ、あいつ!という話しになる。
そして、1番謎だったのが、脳梗塞後、目が覚めると、毎朝起きると看護師が今日は何日ですか?ここはどこですか??という質問をされていたのに、Aりんかわいい!!と言ってから、浅朝目が覚めて、Aりんを見て、Aりーーーん!!!今日もかわいい!マイエンジェル!!と言うと、Aりんから
意意識レベルクリア!オッケー!と言われるようによなる。
それでいいのか?
日付けとか聞かないの?
Aりんを、可愛い、天使、マイエンジェルと認識出来てるから意識はちゃんとしてる!って事なの?
私は朝から可愛い子の顔が見れて幸せなので、それで良いけど!
そして、何故か私に名前を覚えられた人は可愛いって証拠、と言う話が、ハイケアユニット内で出来上がって行った。
そして、1日に何度も何度も看護士さんが私の顔を覗きこみ、私の名前分かる?と聞いて行く。
そして、かわいい子、きれいな子の名前は一発で覚えるわたし!
可愛い子の一番はAりんで、きれいな子の一番はRさん。
だけど、私の心を鷲掴みにした看護師さんはAりんでも、Rさんでもなく、AYさんって人。
この人は、私の顔のぞき込み、なんども私の名前わかる?と聞いてくるけど、私はなかなか名前を覚えられなくて、毎回名札を見てる答えていたら
かわいい子と綺麗な子は直ぐ覚えるのに、私の名前は全然覚えない!!毎回名札見る!!といって、名札を隠しながら、わたしは誰でしょう?と言ってくるようになった人。
とにかく私に名前を覚えてほしかったのか、ただ単にに私の担当だったのかはわからないけど、とにかく私のことを構ってくれた。
で、気付いたら好きになってた!
好きとは違うかな?なんだろ、依存?
脳梗塞になって、左半身は動かないし、
ハイケアユニットはみんな重度患者で、お話しも出来ないし、
病気になってやっと見つけた、まともに話が出来る相手で、依存が強かったのかもしれない。
それか哺乳類が、が初めて見た動くものを母と思うのと同じ刷り込みなのか。
同じ女性で、しかも、患者にこんなこといわれても困るだけだだとおもうが、本当に熱烈にアピールした。
好きだ、愛してる、結婚しよう、幸せにする!出来なかっったら慰藉料払うから!!と言ったけど、笑顔で断られました!
素っ気ないところがまた素敵!!!!
すき!ほんとうにすき!でも私がすきだと言う度に、私はN先生が好きだから無理ーって断わられる。
このN先生というのが、私担当医だった、脳神経内科の先生。40代半ばくらいの先生。
AYさんは、かっこいいというが、正直言って私にはわからない。、それをAYさんに伝えると。怒られる。
どんな所がすきなの?って聞くと
奧さんの為にカレーを何時間も煮込むんだよ。そんな優しいところがすき!!!っていう。
カレーなんて誰だって何時間も煮こむよ!!!
なんなら私も牛筋何時間も煮こんで、めちゃくちゃ美味しいカレーつくれるよ!と求愛したが、仕事で忙しい中、奥さんのために何時間もかけてカレーを作るところが好きみたい。
そうか、そんなものなのか?AYさんの事はすきだけど、その気持ちは理解できない、ごめん、AYさん。
好き過ぎてプロポーズもしたし、AYさんに捧げる良妻宣言というのまで考えて伝えた。
ここの良妻宣言は別に誰も気になら無いと思うけど、次回の日記のネタにでもしようと思います。
おしまい。