脳梗塞で片麻痺になった私が保護猫カフェを作るまで~

2019年に31歳で、もやもや病から脳梗そ左片痲痺の車椅子になった私が保護猫カフェを作るまでの記録です

AYさんに捧げる良妻宣言 【闘病記その6】

 

今回は、天使との出会い 【闘病記その5】の日記で触れた、私が入院していたハイケアユニットの看護師さんで、大好きになって同性でありながら、プロポーズまでした、AYさんに捧げた良妻宣言を私もあの頃の気持を忘れないために、ここに書きのこしておこうとおもいます。
設定は私とAYさんはマンションで共同生活してる設定です。
まず、AYさんに良妻宣言を伝える前に、この設定を話したら、

こわい、そんなこと絶対ありえないけどね!!!って言われました。

以下がその内容です
聞かせた人みんなに重いと言われたのできっと重いといとおもいます。
わたしは愛が重い女なんです。


では、以下良妻宣言です。
・私はAYさんの為ならどんな仕だって毎日がんばれるでしょ
・AYさんの為に、AYさん好みのお弁当を毎日作るでしょ
・仕事で疲れて帰って来たAYさんがすぐにお風呂に入れる様に、AYさんの帰宅時間の把握とお風呂の準備をかかさないでしょ
・お風呂あがりのビールやコーラも忘れずに準備するでしょ
・毎日AYさんの食べたい夕食を準するでしょ
・でも、あまりにも毎日変わり映えないのもあれだから、時々はお洒落なレストランで外食とかしちゃったりするでしょ
・AYさんが用事でお出掛けしたい時には束縛せずに笑顔で見送るでしょ
・AYささんが独りになりたいって夜には私はホテルに泊まってお家には帰らないようにするでしょ
・本当は嫌だけど、AYさんが、何処の馬の骨とも分からない男と結婚して、子供が産まれたとしても、AYさんの子供なら絶対にかわいいから可愛がるでしょ
・AYさん1人に子育を押し付けたりしないでしょ
・子供には、ピアノとかサッカーとか習わせたいけど、あとは本人達の意志を尊重してのびのびと育てたいでしょ
,AYさんと同じくらいAYさんの両親の事も大事にするでしょ
・毎年の父の日と母の日には両親を自宅に招いていてホームパーティーとかしちゃうでしょ
・もちろんAYさんの誕生日には欲しい物のプレゼントと、と年齢の数の薔薇の花束を準備するでしょ
・子供たちの為にも祖父母と同居する事は良いことだから庭付き一軒家を建てて、AYさんの両親と同居したいでしょ
・もしAYさんの両親に介護が必要になった場合は施設などには頼らずに、お家で面倒を見るでしょ
・もし子供達が無事に成長して独立したら、またAYさんと2人暮しで少しだけさみしくなるけど、私は1日の始まりと終わりにAYさんの顔が見れたらそれだけで幸せです、
これが、私がAYさんに捧げる良妻宣言です。ダメなところがあったら御指摘お願いします。っていったら、AYさんは笑顔で、
ぜんぶだめーーーーー!

と言いました。ほんんとこういう素っ気ないところがだいすき!
愛されるよりよりも愛したいまじで!だから全然いいんですけどね。

とにかくAYさんに捧げた良妻宣言は脚下されましたが、AYさんが、
でも、私の両親を大事にしてくれるのは嬉しい、ありがとう!
と言ったんで、おっけーされたようなものだと私は思ってます!!!!
何事もポジティブシンキング!!!

ちなみにAYさんのスペック


私より1個下
かわいいよりきれい系
きつね顔

めちゃくちゃどえす
さばさばした性格
めちゃくちゃ仕事ができて、よく、リーダーとかしてる。
潔癖症
指と爪の間に汚れが溜まってたら汚い手で触るなと怒られる
ちなみにAYさんの爪は短くて切り揃えられててめちゃくちゃ綺麗
なんなら一日中舐めてられるくらい綺麗、すき。
とにかく私の主治医のN先生が大好き
N先生にも好きだって言ってるし、はイケアユニット内でも、AYさんはN先生が好きってみんな知ってる
そして、N先生に相手にされてない事もみんな知ってる
他の看護士さんいわく、AYさんがN先生にスキスキ言ってN先生にも満更ではない感じだけど、N先生が愛妻家過ぎて恋愛には発展しないが、そんな愛妻家なN先生が大好き。
N先生は、ミステリアスでイケメンだと思ってる。
N先生がAYさんと話したそうにしてる時はあえて話し掛けない。自他認める小悪魔っぷり
本人いわく、私、悪い女だから。

カフェが、好きだけど、甘い物には興味なく、カフェご飯が好き。
あとから分かったことだけど、Aりんと仲良し。
休みの日はAりんとドライブしたり、作り過ぎた豚汁をあかりんにさしいれたりしてる。


ついでにAりんのスペック

AYささんより1こした。
髪の毛ふわふわしてて、めちゃくちゃかわいい。
良い匂いがする。
マイエンジェル!
でも、周りの看護士さんいわく、怒ると怖いらしい。
本当にかわいい。すき。
私が。Aりんのこと天使って言ってたら、別の看護士さんが来て、天使?違うよ、あ、あ、あ、ってわたしに悪魔って言わせようとするから、圧倒的天使!って叫んだら、意識レベルクリア!!ってAりんも叫んでた、周りの看護士さんからブーイングが起こってた。
あれだけかわいいと僻まれるのも納得。

 

本当に二人とも大好き!

 

唐突におわる。

半側空間無視 【闘病記その7】

 

こんにちは、このかです。
入院後しばらくして、看護士さんに今日からゼリーを食べる練習をしてみようのいわれ、この日から毎朝看護師さんからゼリーを食べさせてもらうようになる。
オレンジ味とかパイン味とか。基本的に果物が嫌いで酸っぱいものが嫌いな私はこのゼリーがあまり好きでは無くて、看護士さんにパイン味はキライだとよくワガママを言った。酸っぱいのは嫌いだって言ったら、看護士さんが持ってきたのがはちみつレモン味。
これはすっぱくはないけど、ずっと口のなかにはちみつの味が残るから、結局あまり好きではなかった。

それをしばらく続けていたら、飲み込みに問題は無さそうだから、普通のごはんも食べて見ようという話になり、栄養を流してた、鼻の管を抜くと事に。
この管を抜いたのが
私の主治医で、恋仇でもあるN先生。気持ち悪いとかもだけど、がまんしてね、いっきにいくよ。と言われ鼻から抜かれる管。
本当に気持ちわるかった。まるで
内蔵を鼻から内蔵を引っ張り出されているかのような気持ち悪さ。

管を抜き終わったら主治医のN先生から、栄養の管も取ったし、点滴ももう辞めるから頑張ってごはん食べてね!!とさわやか笑顔で言われた。
その一部始終を見ていたAYさんが、やっぱりN先生は優しい!!!!と大絶賛してた
カッコいいってのは全然分からないけど、優しいのは事実だと認めるしかなかった。

そして、病院食を食べるようになって気付いたことが、日記の題名でもある、半側空間無視という後遺症。
半側空間無視というのは、脳梗塞の後遺症の高次脳機能障害の1つでもあるのですが、わたしの場合は、右脳に脳梗塞が起きたため、左の手足の麻痺と、左側の物が見えない、見落としてしまうという症状でした。
普通では、経験することが無いので何と説明したらわかりやすいのかわかりませんが、目には見えてるのに、脳がそれを認識しないと言う感じです。
わたしの場合は、左側の御飯に気付けませんでした。御飯の時に白ご飯を捜そうと思っても、もし御飯がトレーの左側にあったとすれば、見付ける事ができなくて、ごはんを、ずっと探していました。左側にあるものが認識出来ないので、いくら探しても見つからないんです。
白御飯は絶対的あるとわかっているのに、左側にあると絶対に見つけられない。
視力が失われいるわけではなくて、視力はに問題は無いので、見えているのに、脳がそこに御飯がある事を認識しない。

看護士さん達が御飯ここだよってトレーの左側にある御飯を右側に移動すると、
あれだけ探しても無かった御飯がそこにある。
本当に不思議な感覚でした。
のころから、言語聴覚士さんのリハビリ がスタートしました。
まずは、自分の名前とおうちの住所を書いて見てという簡単なんならものから、部屋の間取りを書いて下さいとか、ネコの絵を描いてくださいというもの。この辺は全然全問題無く出来たのですが、すごい苦手なリハビリがあって、A4サイズの紙に1〜50の数字が書いてあって、1から順番に線なぞって下さいというリハビリ 。
ごく簡単そうに思えるとおもいますが、左側が見えない私には無理難題でした。だって、探してる数字が紙の左側にあったら一生かかっても探せないんですもん。
あとは、立方体を描いて!これ、これは本当に嫌いです。
なんか、脳梗塞で右脳をやられると、立体の物を把握するが難しくなるみたいで何度もやっても立方体が描けない!
あと、このSTのリハビリ 自分の出来なさを実感させられるし、頭を使う分、めちゃくちゃ疲れるので。あまり好きではありませんでした。

この半側空間無視は病院を退院して自宅に帰った今でも、実はまだ少し残っています。病院にいる頃は、左側にある御飯を捜せない、左側の壁にぶつかる、廊下で左側を歩いている人に気付けない。自分の病室が左側にあると病室に帰れず院内で迷子状態になる。

という感じでした。今では、白ご飯など、絶対にあると分かっているものは、左側を意識して見ることで探せないってことはありませんが、たとえは、無意識のうちに携帯などを、机の左側に置いてしまうと、あれ?携帯どこだ??って事は良くあります。
ままぁ、いままでの経験で物が見つからないときは、左側を確認する!という習慣が刷り込まれているので、普段の生活で困る程の酷い半側空間無視の後遺症は残っていませんが。
とにかく自分には半側空間無視があるという事を理解して上手く付き合って行くしかないのかなとは思っています。

おしまい

 

リハビリ 開始【闘病記その8】


もやもや病から脳梗塞になり、病院に入院、頭蓋骨を外したのが2019年の6月19日。
それで、呼吸器や栄養の管など、身体に繋がっていた管が全部抜けたのが24日。
そして7月6日からついにリハビリが始まりました!!!!
最初にしたリハビリ は、ベッドから起きて車椅子に移乗するリハビリ。
すっごいガタイのいい男性がきて肩に捕まってと摑まされて、とにかくこのかさんは立つ事だけに集中して!といわれ、ベッドから立つ。
立つと言っても、ずっと前から抱き締められる形で支えられてるんので、あまり自分の足で立っている感覚はない。
そしてあっと言う間に向きを変えられて、気付いたら車椅子に。
なんか、ふらふらします。と伝えると、すぐにはかられる血圧、60しかない!
だって病院に運ばれて、18日間寝たっきりだったのに、急に起きたんだから血圧下がってもしかかたない!と言われ、今日は車椅子で昼ご飯を食べる。これがリハビリといわれ、車椅子でに座ったままお昼ご飯を食べました。
本当に疲れた。
早くベッド帰りたい。でも食べ終えないと帰れない。必死になってごはんを食べて、歯を磨きをしてベッドに帰して貰いました。
本当につかれた。
この日から毎日お昼ご飯は車椅子に移って食べるように。
それに慣れきたらリハビリ 室に移動して平行棒という棒をつかみ立つ練習がスタートしました。
た。
1日のスケジュールとしては、朝の11時から車イスに起きて起立練習
12時から車椅子でお昼ご飯をたべて、車イスに座ったまま待機
13時から小1時間リハビリを行ないベッドにかえりお昼寝して、夕方4時頃になると言語聴覚士さんがらきてプリントのリハビリ
これが一日のリハビリ スケジュール。

一日3回。私が頭蓋骨を外した病院は急性期病院だったため、一日のリハビリは3回でした。棒につかまって立つだけのリハビリ もかなり難しく、自分ではまっすぐたってるつもりなのに、だんだんと左に傾く体。
そしてもっときつかったのが、歩行練習。
歩行練と言っても、左足は完全に麻痺してるためまったく動かないので、立たされた後に、1人の看護師さんが、左ひざが、折れないように支えて、もう一人のリハビリ さんが、私の左足を少し前に出す。そして、わたしは自分で右足を出す。これをくり返す。
その繰り返しで数メートル進んだだけで汗だく!
足とか痛くない?としきりに聞かれましたが、あしは痛くなくて、あしより痛い場所、それがおっぱい!

入院して二週間以上寝たきりで、ブラジャーをつけると言う概念がキレイに二抜け落ちていた私。
ノーブラでのリハビリは、左脚をリハビリさんに出してもらって自分で右足を出した時の衝撃で揺れるおっぱい、その度に走る激痛。正直、おっぱいがちぎれるかとおもった!!!
そしてリハビリさんんに、誰でもいいから背後からおっぱい支えといて下さい、とお願いするも、それはできないよ!!と言われる。
余の痛さにテンションダダ下がりの私。とりあえず親にブラジャーを持って来てもらってらリハビリ の時はつけるということで話しは落ち着きましたが。
ブラジャーの偉大さを感じました。
ブラジャーいつもありがとう!!!

 

 

一般病棟に異動【闘病記その9】

 

その日は突然やってた。
7月12日の朝、いつものように、Aりんの顔をみて。あかりん今日も可愛い!マイエンジェル!と叫び、Aりんから、意識レベルクリア!!オッケー!と言われた後、
このかちゃん、おめでとう!今日の午後から一般病棟に移動になるよ!
お母さんはもう連絡したから!
1時になったら移動するからね!
と。
ハイケアユニット内は完全携帯使用禁止だったが、一般病棟に移れば携帯解禁となる。それはうれしかった。
だが、わたしには気になることがひとつあるこのであかりんにきいた。
一般病棟にAYさんいる???

そう、AYさんはは、ハイケアユニットのナースなので、一般病棟には居ないのである!!!!

大変!!!!!!
行きたくないと駄々をこねる私。
そこに颯爽登場するAYさん、
あれ?いつもの制服じゃない。
なんと眼の前に居たのは私服のAYさん

おそろしく可愛かった。まだ、出勤したてで、休憩室で私がゴネてると聞いてそのまま出てきたみたい。
そして、ワガママ言う人キライ!と言われる。

 

相変わらずわ冷たい!でも好き!!!

そして御飯ちゃんと前部食食べていい子にしてたら、会いに行ってあげるから、さっさと行けというAYさん。

その言葉を疑うこと無く信じて、わたしは一般病棟に移動になりました。
携帯を使えるが、いつも見える所にAYさんが居ないという代償と引き替えにして。

結果からいうと、AYさんさんはなかなか会いにきてくれませんでした!
Aりんは数日に1回のペースで会いに来てくださいくれたけど!さすがAりんマイエンジェル!
あとは、恋敵のN先生は主治医なので、毎朝、顔みに来るんだけど、いままで慣れ親しんだナースさんたちは一人もいない一般病棟、
携帯が使えるおかげで、友達と連絡取れる様になったけど、やっぱり淋しい。

 

だから、一般病棟にうってからは、AYさんの話しは主治医のN先生にするようになった。
N先生に言ったことが、AYさんさんに好きっていったのに、N先生が好きだからって相手にしてくれないんですー。
N先生は満更でもなさそうに笑ってた。
あと、どうやったらハイケアユニットに戻れますか?て聞いたら、なんで戻りたいの?って聞かれたので、AYさんさんに会えなくてい生きる気力がわきませんっていったら、AYに(N先生はAYさんのこと呼び捨てにする、わたしも呼び捨てで呼んだことないのに!)会いたいって理由だけで、ハイケアユニットには帰れないから、AYにはちゃんと会いくるように言っとくね。だって!
N先生やさしい!!!
N先生ありがとう!どこがかっこいいかわからないとかいってごめんなさい!

そして、N先生かがAYさんに伝えてくれたのか、その日の内にAYさんが会いに来てくれた!
でも、わたしをみて言い放ったことが、
N先生にハイケアユニットに戻りたいって言って困らせたでしょ!N先生困らせるひとほんとむりー。
もう逢いに来ないからね!!!!!!
でした!


AYさんごめん!
でも、その後も病室まではなかなか来てくれなかったけど、リハビリ中とかには様子見にきてくれた!
というか、私が色んな人に、AYさんが、好きだ、AYさんは元気にしてますか?って言いまくったせいで、AYさんが居ないとこのかがやる気出さないから、ひまならちょっと顔出して!!ってリハビリ のひとがよくAYさんをリハビリ 室まで呼び出してくれた
そして顔みるたびに、かわいい、好きだ、愛してる連呼してたら、いままで生きて来てこんなに人に好きって言われたのはじめて。
とよく言っていた。

我ながらほんとウザいくらいスキスキ言った自覚はある。
本当にあの時はAYさんが生きる気力だったと思う。たぶん、AYさんが居なかったら、急に不自由になった体で精神を病んでいたと思う。
AYさんが好きすぎて、

回復して退院した後の、AYさんとの未来を妄想するのが忙し過ぎて、病んでる時間なんてなかった。
たしかに入院する前から、可愛い女の子は好きだったけど、もちろん、恋愛対象は男の人だし、同性の異性問わず、そんなに人にスキスキいうタイプの人間では無かったので、親にもまるで人が変わったみたいだってよく言われたし、親が主治医にも、同性の看護師さんに、好きだ結婚しようとかいうし、頭までおかしくなったでしょうか?って聞いてた。N先生は、笑ってた。
笑うしかないって感じだったけど。
取りあえず、本当にここの病院では皆んなに良くしてもらえたと思う。
今後も、もやもや病の検査で年に一回は受診しないといけないので、AYさんにもAりんにも会えるからたのしみ!
ちなみに今度の受診は6月です。ちょうど脳梗塞になって1年なので、その頃にはリハビリ頑張って、少しでも装具つけて杖で歩ける様になってたらいいなっておもうのでリハビリ がんばらねば!

 

 

 

リハビリ 病院への転院 【闘病記その10】


もやもや病から脳梗塞になり、熊本済生会病院に入院、頭蓋骨を外したのが6月19日。
7月6日から、リハビリが始まり、12日はHCUから一般病棟に移動になり、そして、とにかく今の時期はリハビリ が大事だからと16日に県内のリハビリ病院、熊本桜十字病院への転院がきまりました。

本当は頭蓋骨を外して、1週間で腫れが引いて頭蓋骨を戻す予定だったのですが、私はなかなか腫れが引かないので、ここの病院で腫れが引くかを待つより、リハビリ  病院でリハビリしながら、腫れが引くのと待ち、、腫れが引いたらまた頭蓋骨を戻どしにこの病院に帰って来て外した頭蓋骨を戻した方がいいとのこと。


一般病棟に移動してから退院が決まるまで本当にあっという間でした。
そして、転院が決まって、私が最初に頼んだ事がAYさんに会いに行きたい!
ってリだってAYさんから会いに来てくださいくれないなら自分から行くしかない!
ってリハビリ さんに言ったらリハビリさんが車椅子のこぎ方を教えてくれた。
これがなかなか難しい。
方向転換は足でしないといけないんですが、なかなかできず、みっちり1時間車イスの漕ぎ方を教えてもらって、なんとかこげるように!
私は一般病棟でAYさんがいるHCUまでは、病室を出て左に曲がって200メートル先にある。
私、AYさん会いたいそれだけで、必死に漕いだ。
たった200メートル進のに5分くらいかかった。そしてやっとたどり着いた。
そう、ここは砂漠の中のオアシス!
私はたどり着いたのだ!!!!!!!!!
HCUの前まで来ると受け付けの看護士が私を見るなり、AYさんに会いにきたの!?ちゃっとまってね!!!と言ってAYさを呼びに行ってくれた。そそして次つぎに出てくるHCUの看護師さん!

嬉しい!!!
みんな、HCUに居る時は寝たきりだったのに、もう車イス漕げるようになったの!?って言うので、AYさんに会いたかったからって言ったら愛の力って凄い!って言って喜んでくれた!
そして、少し遅れて出て来るAYさん、私を見るなり、
車椅子漕げるようになったら会いにきていいとは言ったけど、本当に会いにきたの?怖っ!でした。
相変わらずの冷たさに心がしびれた。これでこそ私が愛したAYさんだ!
ツンデレにデレはいらないっていうしね。

そひして、AYさんに16日に転院する事を伝えると、N先生に聞いたよ、N先生に早く会いに行ってあげてって言われてたけど忙しくて行けなかったんだよ、ほら、私を偉いからリーダー忙しいんだ!って言ってた。
N先生有難う!N先生やっぱり優しい!
AYさんが好きなのも納得だと思って、リハビリ 病院に行って転院する朝には、N先生に、AYさんの事よろしくお願いしますねって謎のお願いをして、リハビリ病院の熊本県桜十字病院に転院しました。

N先生にも腫れが引くのにたぶん三ヶ月くらいかかかるからリハビリ  がんばってね!って送り出されました。

つまりは3ヶ月はAYさん会えないって事です、

正直言、不安一杯の旅立ちでした。

 

回復期病院の1日 【闘病記その11】

 

こんにちこのかです。

2019年の6月19日に脳梗塞になり脳梗塞が起きている右側頭蓋骨を外し、普通は1週間で引く脳の腫れがなかなか引かず、今はリハビリ に専念した方がいいと言われ、7月16日に、今までいた急性期の、の熊本済生会病院から、県内の回復期リハビリ 病院、熊本桜十字病院に転院した私。

 


今日は回復期病院の一日の流れを。
朝は6時半起床。
7時を過ぎるとその日の部屋持ちの看護師さんやワーカーさんが来て、御飯に行こうと、ベッドのまま廊下に出されて。ナースステーション近辺に設置され、ご飯が配膳されるのを寝ながら待ちます、
そうこうしてると、御飯のセッティングしようといわれ、右手でベッドの上の柵を掴み、自分で身体を引き上げ、ベッドの頭をおこし、ご飯の準備、
そこまですると、あとは看護師さんやワーカーさんが、ベッドの上で御飯を食べる為の
オーバーテーブルや、サイドテーブと言われるテーブルとご飯を設置するしてくれるので、御飯をたべる。
食べ終わって待っていると、順番に薬を配りにくるので、自分の名前と生年月日を言って薬を飲む。
薬を飲み終わると、また看護師さんやワーカーさんが下膳して、歯みがきセットを持って来てくれるので、ベッドの上ですわったまま歯磨き。 歯みがきまで終わるのがわだいたい8時〜8時半ころ。
このころになると、リハビリさん達も出勤し始めるので、ナースステーションの周りはが多くなってくる。
そきて、御飯の為に廊下に出されてる患者たちは御飯が終わると順番に部屋に戻されていく。
部屋に帰るのがだいたい9時前くらい。
そして、9時〜9時半までの間に担当のリハビリ さんが今日のリハビリの時間を伝えに病室までやって来る。

ここでわたしのリハビリ担当さんの名前紹介

 

理学療法士、WKさん

言語聴覚士SST

作業療法士、ピンクパンツ

言語聴覚士、STOY


私は基本的に
10時から言語聴覚士SSTと言語のリハビリ、言語と言っても、私は言葉は問題無く出たので、半側空間無視を改善するリハビリ。
そして、11時からは、PTのWKさんと足のリハビリ。
主に何をするかといえば、
リハビリ用のベッドの上に横になって、腹筋などの筋トレをしたり、両足を膝立てして、お尻を上げる練習や、膝立てした状態で、麻痺した左足を引き上げる練習。
あとはベッドに下に足を下げて座って、座位が安定するように練習。
回復期病院に転院して直ぐは、ベッドなどの柵に掴まってないと、ただ座っていることも難しかった。身体が左に傾いて行く、まるでダルマさん状態。
手放しでベッドやソファに座っておくなんて絶対に無理。
ベッドから、起き上がる為にも腹筋がいるし。とにかく腹筋を鍛える必要があった。
私が良く、腹筋死んでます、腹筋が息してないですーって言っていたので、WKさんからもピンクパンツからも、早く腹筋を生き返らせようね!って言われた。
本当に腹筋がご臨終してて、腹筋も1度も出来なかったし、出来る気もしなかった!

いまは普通に出来るようになったけどね!
WKさん。ピンクパンツさん、SST!私の腹筋息を吹き返したよ!
出来れば、入院中に生き返らせたかったけど!
ど!!!!

そして12時からまた、廊下に出されお昼ご飯を食べる。

 

それで、だいたい14時から、STのSTOYが病室まで来て顔面の痲痺を治すリハビリ

リハビリと言っても。私はベッドの上でベッドの頭を起こしてすわり、STOYが麻痺してる左顔をマッサージしてくれる。あとは、舌を右、左、上、下と動かず体操をするくらいなので30.分もせずに終わる。
そそして、16時くらいからOTのピンクパンツと左腕ののリハビリ 。
これは。病室のベッドの上やリハビリ 用のベッドの上で行う、ベッドに寝た状態で、肩をあげたり、ひじを曲げたりするリハビリ。

これてで、1日のリハビリ は終り、ベッドに戻り、病室で待機してると、18時半からまたベッドごと廊下に出され夕食、食べわ終わり歯みがきも終わった人から順次部屋に戻され、21時に消灯。
こられが回復期病院での一日の流れです。
さすがリハビリ 病院ってだけあって、急性期では一日3回だったリハビリが、回復期のここでは4回ありました!!!
でもそのぶん、暇しなくてよかった。
だって身体は動かないし、リハビリ 意外はベッドで横になってるしかないので、リハビリがないと、時間が流れるのがひたすら遅く感じるので、ほんと、1日バタバタと過ぎて行く感じが嫌いではありませんでした。

 

 

装具作製【闘病記その12】

 

こんにちわこのかです。
このブログもも気付いたら700アクセス行ってました。f:id:k0n0ka:20200211113302p:image

 

 


こんな誤字だらけの読みにくいブログでも色んな人が見てくれてると思うとうれしいです。
桜十字病院の言語聴覚士さん(SST)にも反則空間視があるし、軽高次脳機能障害の注意傷害で、文章を書いても誤字や変換ミスが多いから、とにかく誤字が無いように書いたらよみ返すクセを付けなさい、と言われたので、ブログを書くのもリハビリ の一貫だと思い続けて行こうと思いますので宜しくお願い致します(*´◒`*)


219年6月19日に脳梗塞なり、20日に頭蓋骨を外し、7月16日にリハビリの為、熊本桜十字病院に転院した私。
済生会で大好きだったAYさんやマイエンジェルのAりんと離れ、ホームシックならぬ、済生会ショックに陥った私でしたが、SSTや、PTで、担当のWKさんに出会い、桜十字での入院生活にも慣れて来た8月上旬、WKさんから、歩行練習の為に、装具を作ろう!といわれ、装具を作成しました。


まずした事は装具を作るために、足の型取り。
この頃はまだ、麻痺側の左脚には全く力が入らず
膝がガクッとなってしまう、膝折れがあったため、それを防止するために膝ロックが出来る、長下肢装具というタイプの装具を作成しました。

 

こんなやつです。👇↓

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この型取りと会うのが、ソファに腰掛けて、石工をつけた包帯を朝首からふとももまで巻き、固まるのを1時間ほどまつのです。

この説明だと1時間座ってるだけなので、簡単に聞こえるかもしれませんが、この時の私はまだ背もたれが無いイスに1時間座ってるだけで、かなりの重労働。
だって、身体が自然と左に倒れるので、座位を保つ事が難しい、
なんでWKさんが、ずっと隣に座って支えてくれました。

WKさんありがとう!すき!
WKさんも何よりもこれが一番いいリハビリ かとしれないね!と言ってましたし、桜十字を退院するまでで一番きつかった出来事といえば、間違い無く装具作製だと即答出来る位、きつい作業でした。
そして2週間ほどで無事に装具完成!
それから、WKさんとのリハビリ には、装具を着けての補講練習が始まったのですが、この、装具を履くのがめちゃくちゃ痛い。
毎回苦痛だったんですが、
装具を履くと時は、WKさんが私の眼の前にしゃがみこむのですが、その時にWKさんの胸の谷間がばっちり見えるんんです、
まさに福眼(╹◡╹)


あと、装具を履く為に、WKさんが私の左足を持ち上げるんですが、その時にWKさんの胸に私の左足の甲が触れるんです、私の足が触れる度に揺れるWKさんのおっぱい!
なのに!私の左足は麻痺してるので、まったく感覚が伝わって来ない。WKさんのおっぱいに確実に当たってるのは目に見えてるのに。麻痺しるせいで、感覚が全く、伝わってこないのです!
この悔しさがわかりますか!!!!!!!
くやしい!なんてぽんこつなんだ私の左足!!もっとがんばれよ!!!!!

ちなみに退院するまでWKさんとは数え切れないほど歩行練習をしましたが、いちどもわきさんのおっぱいの感覚が分かったことはありませんでした、、、。私は哀しい。